なまこ旅行記。

旅行記と生息記。

なまこ旅行記

主張とは

あるものごとを主張するときに、強い言葉を使ってほしくない。

 

何故かといえば、人間は感情でも動く生き物だからであり、論理だけで動く生き物ではないから。

 

 

どういうことか。

「あるものごと」を主張するとき、というのは、「賛同してほしい」「主張が受け入れられてほしい」「仲間を増やしたい」ときだと僕は思う。

では、当然その主張というのは「万人」に向けてもたらされるものであるし、欲を言えば全人類が自分の主張に同意してくれれば万々歳のはずである。

 

では、万人にはどのような人がいるだろう?

 

自分の賛同者?当然これはいるだろう。自分ひとりかもしれないが、それでも自分は自分の賛同者である。ここが揺らぐと主張は主張の意味を成さない。

 

自分に対立するもの?こちらも当然生まれうる。政治なんか見れば一発でしょう。Twitterでは、寧ろこことのバトル、論戦を生きがいにしている人も多く見かける。

 

そして、最も多いものが、「興味がない人」たち。先程から何回も「当然」という言葉を使ってきたが、この地球上全員に届く言葉なんてない。発信と受信の壁、言語の壁、そもそもの”時間の足りなさ”など届かない要素は沢山だ。

興味がない主張を読んでもらうのは難しいし、そこから賛同に至るのは難しい。更に言えば、何かを嫌いになるのは簡単だが、何かを好きで居続けることは本当に難しい。

 

そして、何かを主張する、ということはこの三種類のタイプの人に向けて発せられるし、賛同者を増やしていく行為だと言い換えても構わないと思う。

 

ここで少し理解してもらいたいのは、僕が話しているのは、「なにかを買ってもらうためのマーケティング」ではなく、「主張の賛同者」を増やす行為だ、ということ。

マーケティングならば、知れ渡った中で「買ってくれる人」だけを掬い取り、「買ってくれない人」は切り捨てればよい。しかし、僕が話しているのはあくまで「主張」のこと。何かの「主義」のこと。言い換えてみれば、「これが良いもの、正しいものだと信じていること」のこと。

 

最終的な目標としては、ありえないとわかっていようとも、万人がそれを支持してくれることを掲げなければならない。

それは例えば資本主義、それは例えば合理主義、それは例えばフェミニズム、それは例えばグローバリズム、それは例えば白人至上主義、それは例えば表現の自由主義、それは例えば軍国主義かもしれないけれど。

 

そして、最初に言ったように、人は本来賢くない。にもかかわらず、学ばぬことについては全くわからないし、学んでもわからないくらい高度で、かつ大量の知識の中で僕たちは生きている。

 

どれに賛同するか、というのは自分のバックグラウンドにもよるだろうけれど、100%あるカテゴリの主義を理解し切ることは、誰にだって不可能だ。

 

それは料理にも似ている。プロの料理人は当然美味しく作れるし、素人は真似はするものの上手くは作れない。でもプロだって、そのジャンルの全てのレシピを理解できているわけではない。これがいわゆる大学教授や政治家と、その賛同者のような関係だと思う。

 

でも、料理って何もしないで広まるものじゃあない。美味しくて、かつ「食べたことがある」、あるいは「美味しそうなものを見たことがある」から生まれるんだ。勿論、ある食材を見て食べたいから生まれることもあるけれど。

 

1から料理を創作するのは難しいし、プロ並みに作るのは難しい。1から主義を生むのも、プロ並みに主義を語るのもまた難しい。

 

話が逸れたけれど、普段生活の中で食べるご飯、というのが僕の言う「受け入れられている主張」だと思う。誰かが作り、そして根付いた。

主張で言えば、人権思想なんかがこれに該当するんじゃないか。

 

では、このレシピを広めたい、というときに、何が問題になるか、といえば、美味しさももちろん出し、作り方ももちろんだと思うんだけど、やっぱり「食べたい」ってなるかだと思うんだよ。

 

んで、主張をするってことは、自分の家で作るだけじゃなくて、他の人の家でも作りませんか、って言うことだと思うんだよ。

 

そのために何が必要か、っていうとやっぱり普段の調理道具で作れるか、材料が売ってるかだろうし、それはすなわち人権思想とかと矛盾しないか?みたいな僕らの「当たり前」とどこまで親和性が高いかがキーになってくると思うんだけど、「そもそも作ろう、食べようと思わせる」ことがやっぱりいちばん必要なんだよ。

嫌いな人から勧められたレシピなんか絶対作ろうと思わないし、普段危ないから近づかんとこ…ってなってるところからはそもそもレシピを入手しようとは思わないと思うんだよね。

 

だから、「何かを主張する人」っていうのは「嫌われちゃいけない」んですよ、だから荒い言葉、強い言葉を使ってほしくないし、他者と論戦を張るのも本当はやめたほうがいいと思う。

本当に美味しい料理を食べさせ、またそれを広めていくんだから、その料理を食すことを、盤外戦術にやられて妨害されたくないなあ…と。

素人ボコボコにしてた料理人が作ってる料理、そこまで魅力的か?といわれたらなんか胸糞悪くて作る気しないでしょ。NHKきょうの料理みたいな番組で平野レミみたいなたっのしそーなおばさんが作った料理のほうが絶対作りたくなるはず。

 

賢い人はついつい、「自分がわかってるんだからこれは正しい!」という考えでプロ並みの徹底を求めますが、素人はそんなとこまでこだわれないし、知ったこっちゃないわけですよ。手は抜くし、論理はボロボロのことだって当然あり得るわけです。

 

でも、そうやって作った料理には、確かに何かの真が宿る、僕はそう信じたいんですよ。

 

興味ない人にも「作ってみようかなあ」と思わせること、「嫌い」から「好き」に変わる要素がある人を少しでも取り込むために、その前の段階でアレルギーを植え付けてほしくないんですよ。

 

だからお願いします、何も知らない人や相手を侮辱したり、晒し上げたりするというのは、やめた方が良いと思うんですよ。理想だけど、理想を語らないと現実は何も良くなっていかない。

 

とっちらかりました。

「賢くないからこそ感情を大事にしてほしい」というところについて語りきれなかったので、いつかリライトか続きを書くと思います。