なまこ旅行記。

旅行記と生息記。

なまこ旅行記

もののけ姫の感想と、ちょっとした考察。

”一生に一度は、映画館でジブリを。”

 

そんなキャッチコピーにつられて、映画館で「もののけ姫」を見てきました。

せっかくなので、その感想と、その考察を。

 

今回の記事は、普通の感想と考察の二本立てです。考察が見たい方は目次から飛んでください。

 

はじめに

6/26より、全国の映画館で、

 

風の谷のナウシカ

もののけ姫

千と千尋の神隠し

ゲド戦記

 

以上4作品がリバイバル上映されています。

 

値段も最高1100円(大人・大学生)とお手頃なので是非。詳しくは公式を見てください。

 

theater.toho.co.jp

感想

もののけ姫、実は見たのは少なくとも4年ぶりで、下手するともっと前です。もしかすると10年遡るかもしれない。なので、いわゆる「おとなになってみたときの感想」になってしまったかもしれない。

 

とはいえ、何度も見ているので、全部知っているシーンばかり。このシーンのあとにこれだったのか、みたいな驚きがあったりして、しかもそれを映画館でするのは少し新鮮でした。

 

感想として取り上げるのは3つです。

動き

もののけ姫の冒頭は、ナレーションから、アシタカが村の乙女たちに村に戻るように伝え、物見櫓から「ナニカ」が村に来るんだ、というところから始まります。

 

この、物見櫓に登るまでの動きがもうとんでもなくぬるぬるしています。改めて見るとものすごくぬるみが激しい。もはや違和感をおぼえるほどなので、是非ご視聴あれ。

 

事実、今までのジブリ(著名なものでいえば、ラピュタ魔女の宅急便紅の豚、ぽんぽこ)と比べて倍以上の14万枚超の原画を使っているらしく、納得のぬるみ。

 

実際、もののけ姫は全編通してかなり動きが激しい作品だと思いますが、ほぼ全てでハイクオリティ(まあ、作画崩壊してるとこもあったけど…)な動きです。

もののけ姫千と千尋の神隠しを続けて鑑賞して思ったのは、「泥っぽいナニカ」の表現が必ず一個は盛り込まれてるんだなあ、ということです。宮崎さんの特徴なのか、ジブリの特徴なのかはわかりません。

 

ハウルだと荒地の魔女関係、ナウシカなら巨神兵周り。千と千尋だとカオナシ、呪いあたりでしょうか。

 

もののけ姫で言えばタタリ神になったときのやつだったり、シシガミ様の中身だったり。

 

でも、ゼリー状の、紫がかったあのなんとも言えないキモチワルイやつ、多分引き出しなんでしょうね。あるイメージを形に落とし込むときに、多分誰しもある程度の型を用意すると思うんですけど、宮崎さんにとってあれはそういうものを表すときに自然に出てくるものなんかなーとか思いながら見ていました。いや、「そういうもの」がなにかはわかんないですけど。

 

どんなに優れた、あるいは優れているがゆえなのかもしれませんが、映像表現として共通した表現があって、それがその人のいいところになるのかも。

 

パッと思いつくところだと、僕は細田守さんが好きなのですが、あの人は極端に影を嫌う人で、サマーウォーズ時をかける少女ではそれが顕著に現れています。(もしよければ、人物の影とかに着目して見てみてください)

まあ、よく言われる話だと思うので曲の良さにについては割愛します。いいですよね。

 

「BGMぶつ切り」が少し印象に残りました。

 

もののけ姫、結構場面転換が激しい(と僕は思う)作品です。そんな中で、BGMの音は結構大きく感じられます。特に映画館なので、ということもあるのですが、そんなかなり大きなBGMが、転換でパッと無音になると、その落差で「おおう。」みたいな感覚になります。

 

TVで見てたときとか今までは全然気にならなかったのに。不思議。

考察

正直アホほど語り尽くされてきた作品だと思うので、いまさら書く意味あるんか?みたいな感情があります。まあ、でもそういう魅力に溢れた作品だからたくさん語られているということでどうかひとつ。

 

自分は少なくともこういう解釈は読んだことないので、2つともオリジナルですね。

どういう話なのか?

この話、名場面とされるところはたくさんあるんですけど、実際見てみてストーリーがわからんな、と思いました。

 

この話には隠された意味が~とか、隠喩暗喩が~とかではなく、もっと浅い話。表面上のストーリーがわからないんですよ。

 

ざっくり流れだけ書くと、

 

アシタカ、呪われる(呪いは解けません)

アシタカ、銃弾の主を探す旅に。

主、見つける(さりとて何もしない)

もののけ姫と会う。

いろんな合戦に巻き込まれる。

合戦の結果たたら場に住む。

 

みたいな。なんかもう、流され主人公なんですよね。その割に好き勝手動くし。

 

「こうすればいいんだ!」という指針がなく、主体的な行動をするでもなく、どこか脇役なんですよ。

 

「なにがしたいんだ」と思うこと請け合い。

 

他のジブリとの比較でいうと、例えばハウルの動く城の主人公ソフィーは「おばあちゃんの呪いを解く(おそらく解ける)」(のと、ハウル荒地の魔女の契約の謎を解き明かす)ことを目標にしていますし、千と千尋の神隠しは当然、主人公の千尋の「現世に帰還する」が目標なわけです。

 

上の2作品が「序盤にかけられたデバフの消去」が最終的な目標であることに対して、もののけ姫はデバフは消えなさそうな雰囲気ですし、アシタカも基本的にはそれを受け入れたようなムーブです。(シシガミ様ならあるいは、みたいな台詞もありましたけど)

 

実際、アシタカは積極的に呪いを解こうとはしていません。むしろ、出会った人を助けたり結構いきあたりばったりです。

まあ、西の国という曖昧な情報しかないので当然かもしれませんが…。

 

では、この物語はどんな物語だったのでしょうか?

 

まず、主人公の定義から始めていきましょう。

主人公はもののけ姫/サンではなく、アシタカだと思っています。

 

タイトルこそ「もののけ姫」になっていますが、もともと「アシタカせっ記」になる予定だったのを、プロデューサーの鈴木敏夫さんの一存で変更しています。

つまり、「アシタカの物語」を作っていたわけです。

 

さて、では物語の内容に映っていきましょう。

映画館だったので数えられてはいないのですが、もののけ姫にはアシタカが無言で数秒、カッと目を見開くシーンがいくつもあります。久々に映画館でじっくり見ると、流石に違和感を覚えました。

 

これと合わせて、冒頭のシーンを思い起こしてみましょう。

呪いを受けたアシタカ、村の指導者の老女ヒイ様との会話です。

 ヒイ様「アシタカヒコや。そなたには自分の運命を見据える覚悟があるかい」

 

アシタカ「タタリ神に矢を射るとき心を決めました」

 

ヒイ様「そのアザはやがて骨までとどいてそなたを殺すだろう」

 

男衆A「なんとかなりませぬかヒイさま」

 

男衆B「アシタカは村を守り!!」

 

男衆C「乙女らを守ったのですぞ。ただ死を待つしかないというのは...」

 

ヒイ様「誰にも運命は変えられない。だが、ただ待つか自ら赴くかは決められる。」

(銃弾を取り出す)

ヒイ様「見なさい。あのシシの身体に食い込んでいたものだよ。骨を砕き、腸を引き裂き、酷い苦しみを与えたのだ。さもなくばシシがタタリ神などになろうか...。西の土地でなにか不吉なことが起こっているのだよ。」

 

ヒイ様「その地に赴き、曇りない眼で物事を見定めるなら、あるいはその呪いを断つ道が見つかるかもしれぬ。」

(書き起こしミスあっても見ないふりしてください)

 曇りなき眼、エボシ様に笑われた場面の印象が強いのですが、実は冒頭から出てたんですね。

 

以上の2つから、この物語は「狭い世界にいた何も知らないアシタカが、色んなものを”見る”、そして何らかの結論を出す」というテーマの物語だったんじゃないか?と。

 

最後に、シシガミ様にサンとともに首を返すシーン、シシガミの濁流に飲まれるシーンで、目を閉じます。

 

 人、自然などのいろいろを見て、結論を出したことを暗示しているんじゃないかなあ、と考えるのは穿ち過ぎでしょうか。

 

守り刀の意味は?

村を出るときに、アシタカはカヤ(許嫁)から黒曜石の守り刀を受け取ります。

あれは乙女の不変の心を表すもので、これを渡すことによりカヤは一生独り身で過ごす覚悟を決めたということを意味します。だというのにアシタカはそれをサンに渡してしまいます。

 

これ、なんでだろうと思ったんですけど、これもセリフ通り「命」を意味するのかな、と。

 

アシタカは村を追放されています。掟でもそうですし、去るときに髷を切っています。

 

あれは「人」から「非人」に落ちてしまう瞬間なんだと思います。

それを、カヤの命を吹き込んだ刀を持つことで、ギリギリ人として扱われるようにした。

 

刀、というのは人間を表すアイテムなのかなと思った理由は、サンの存在もあります。

 

人と獣、人と神の対比が書かれがちなこの作品において、人にもなりきれない、さりとてもののけ/けものにもなりきれない存在のサン。

 

彼女はずっと、「刀」を使っています。普通、こういった野生児キャラというのは爪とか歯で戦う気がするんですけど、登場時から常に槍や刀といった刃物を使い続けています。

 

刀、道具というのは、手を使う、加工するという点で非常に人間らしいアイテムです。

これにより、彼女はなんだかんだ人の側面を捨てきれていない存在ということを意味していたのかなと。

 

話が進む中で、アシタカはタタラ場と出会い、エミシ社会ではなく大和社会の一員として過ごす決意が固まっています(ラストでタタラ場で生きるって言っていますからね)。

 

エミシ社会では人ではなくなっても、大和社会、少なくともタタラ場社会では人間として扱われることは間違いありません。これは、本来非人扱いされる病人たちがエボシ様に人間扱いされるシーンがあるので、たとえ誰であってもそういう扱いをされます。

 

つまり、エミシの社会から非人扱いだったのが、人として扱われるようになったわけです。このとき、人属性になる装備アイテムは不要となります。

 

一方で、サンもまた、山で生きるのは変わらずとも、もののけだけではなく、人としても生きるのもいいんじゃないか、少なくとも、アシタカには人として見られてもいいんじゃないか、と思うようになります(宮崎さんは、あのあとちょくちょく逢瀬を重ねていると答えています)。

そして、それを意味しているのが、アシタカからもらった「人属性を強化するアイテム」の刀をつけるシーンなのではないでしょうか。

 

まあ、長々と書きましたが、「守り刀」は「人ではない存在が、人として扱われるためのアイテム」だったんじゃないか?ということが言いたかったわけです。

 

終わりに

では。みなさんも見に行こうね。

感想もくれると嬉しいです。