なまこ旅行記。

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宗教の違い観 苦しみ編

※この記事は完全に偏見に基づいて書かれております。有識者はコメントをください。直ちに訂正します。

 

 

 

 

イントロ

 

しばしば生い立ち柄宗教について考えたりするのですが、その中でも最近、「艱難辛苦」への捉え方については特に宗教の差がでるなと感じました。

 

今回話題にするのは、キリスト教・仏教・神道です。

宗教のイメージ、趣味で調べた知識や、信仰している知り合いなんかを眺めていて思ったことなので、細かい点とかは違うかもしれません。

 

今から話題にするものの違いがどこから生まれるんだろ、みたいなことを考察していたのですが、「信仰しているもの」とそこから派生する「世界観」から生まれたんじゃないか、と思ってそれと絡めつつ書いていきたいです。

 

キリスト教

 

まず、キリスト教に関して。

 

キリスト教、非常に怒られそうな説明をすると、全知全能の神が世界を創造し、統治しているとされていることが多いように思えます。

 

とすれば、神の創造物である我ら人間が出会う艱難辛苦も、神の既知であるものであり、神が我らに与え給うたものであります。

 

「天にまします我らが父よ」みたいなフレーズが有名なこの宗教、なぜ子どもたる我々に厳しく当たるのか?

 

「苦難」とは、人間を成長させるものとして与えられている、という説明をされている印象です。

 

僕たちは苦難という試練に立ち向かい、乗り越え、そして成長する。

 

苦難とは、言ってみれば壁のようなもので、敵のようなものという扱いだと了解しています。

 

仏教

 

次、仏教。

 

次もざっくりとしすぎて怒られそうな説明をすると、この宗教、最終的に「悟り」に至ることを目標としてると僕は理解しています。

 

「悟り」。

 

小乗か大乗かなど、いろんな悟りの形というものが挙げられています。

 

僕が一番しっくり来るのは、悟りとは、感情や我欲を捨て去り、すべてをゼロにするという説明ですね。

 

生老病死、苦しみを捨て去るには、すべてを諦め、すべて空にする。

 

生とは苦しいもの。執着を捨て、無常を知るということ。

 

苦難とは、そこら中にあるもので、苦難をゼロに、感じずになるよう心を整えていこうという試みこそが、仏の教えなのかなあ、と思います。

 

神道

 

僕の属する宗教はこの系列ですね。

 

故人、動物、場所、道具…森羅万象のすべてに神が宿るとする道、それが神道なのかなあと。

 

故に神道は自然を崇め、それをそのままとして捉える。

 

自然というか、自らに計り知れない、自分とは異なる、何も汚さない、汚されてない、侵せない、侵されていない「なにか」に神を感じるのでしょう。

 

日常を非日常とするハレとケという概念や、逆に人と神とを曖昧にするような禊、山ごもりなんかはそれを代表するような神道のものでしょうか。

 

その生活の中では、「自然は自然として受け入れる」ことがメインのように思えます。

 

もっと言えば、「それを受け入れるために良く捉える」まで僕はあると思っています。

 

苦難を苦難だと思わない、喜びとして捉えたり、「神」と名付けたりすることによって苦難を受け入れるようにする教え、それが神道なのかなあと。

 

まとめ

 

キリスト教は苦難を乗り越えるもの、仏教は苦難を感じずにするもの、神道とは苦難を受け入れるもの。

 

だから、宗教って人によって合うものが違うんじゃないかな、と思いますね。僕はあんまり自分の宗教が自分に向いていないように感じることが多いです…。