三島由紀夫講演会とそれから考えたこと
今日の授業は、三島由紀夫などの著名な作家さんたちと交友関係にあった方の講演(先生のコネで)に代わってました。というか三島由紀夫って教科書の人だしかなーり昔の人のイメージなんですけどそういうわけでもなかったりするもんなんですね。
その方のお話は、もちろん面白く、また興味深く、三島由紀夫のイメージがかなりガラリと変わりました。割腹自殺のイメージがあるので、結構(「・ω・)「ガオーって方だと思っていたのですが、意外と紳士的な方だったみたいです。わお。
特に印象的だったのは、
「人間には、生きるためにはそこに絶対的なものが必要である」
というセリフです。現在では、特に現代の日本では殆ど見られなくなってしまったが、という前置きをされてからでしたが。西洋、海外においてはそれがキリストであり、またヤハウェである。しかしながら、日本ではそれが天皇の場合があるのかもしれない、そう仰っていました。
これは僕の心に強く訴えかけてくる言葉でした。自分が宗教を信じる身であり、また人間には宗教が必要である、という考え方を持っていることも関係するのかもしれませんね。
講演のあと、講演された方を院生さんや同級生と囲まさせていただきました。公演された方が帰られてからも、先生の講義のような、ゼミのような、それでいて趣味のような、三島の話、谷崎の話、文化の話、伝統の話といった高尚なお喋り?も。
こちらでも印象的だった台詞があります。
「裸体を見て美しいと思わないものは野蛮人である」
これも三島由紀夫の「美」と谷崎のエロティシズムに関係ある言葉なのですが、それは割愛。
これは、服を纏うということ、纏わないことがが恥であるかそうでないかに関してですね。
大事だったのは、日本・古代ギリシャなどが「美しいもの」を尊ぶ文化であれば、服を纏うのはむしろいけないこと、無粋なこと。
逆に、中国や韓国、またそれ以外の国また現在世界の多くの「正しいもの」を尊ぶ文化であれば、服を纏わないことこそ恥なわけです。
話を聞いているときは説得力があったのですが、自分で書くときはいまいち説得力が出ませんね。なぜでしょう:;(∩´﹏`∩);:
こ の後、話があっちへ行ったりこっちへ行ったりして、今流行の論法とは、ということになり、「フラッター化する世界」か何かになったのですが(世界が均質化 している現象のことです)現在では「尊ばれること」が「正しいもの」として「全世界で等しく」なっているなあと思いますね。
古 代ギリシャや日本などの「美しさ」を基準とした文化はおそらく失われつつあり、全ては「何が正しいか」になりつつあるような気がしてないません。何が正し いか、という基準も条約などで「国際的な基準」というのが決められつつあります。もっといえば、科学、という大きな宗教に他の宗教が駆逐されたりしている 気がしますし、はやりのアニメのおそ松さんはみんな同じ顔です。それは違うか。
僕は旅行が好きなので、そし ていろいろな出身の人や他国の人と話して感じる「差異」を楽しむ心を、ありがたいことに持ち合わせています。もちろん均一化していることの恩恵はあります し、そして実際受けてはいますが、少しの不便とともに起こりうる差異を、僕はまだまだ楽しんでいたいですね。
まとまりのない、しかもわかりにくい文章ですねえ。もっともっと文章が上手くなりたい。