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なまこ旅行記。

旅行記と生息記。

「なんでべんきょうしなくちゃいけないの?」

おそらく、誰もが一度は思ったことがある問いかけだと思う。

一応、本当に一応だけど、教育が有名な大学の末席を汚しているからには、必ずこれには答えられないといけないよね、という話。

 

 

 さて、いきなりで申し訳ないのだけれど、僕の考え方では義務教育までしか勉強する「べき」理由は説明できなかった。高校・大学に進学するのが普通になっている現代日本とは、ある程度乖離してしまったかもしれない。

 

「なぜ勉強しなければいけないのか?」

 

その答えが、僕は日本国憲法第25条にあると考える。

 

「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」

 

おそらく最初の一文が有名すぎるほどに有名なので特に解説はしない。

では、「文化的な最低限度の生活を営む」とはどういう意味だろう。

さまざまな意見があるだろうし、これまでも様々な議論があった。

僕は、この部分はいわゆる一般で言われているような「嗜好品・娯楽作品を享受可能な程度の経済的余裕」ではないと思う。

正確ではない。それだけではないと思う、が正しいだろう。

 

 

生活を送る中で、僕らは沢山の「選択」に出会う。

生きるか死ぬかといった大きな選択から、お菓子のグミの味を何にしようか、という小さな選択まで。

じゃあその選択には何が必要だろうか。

言うまでもない、思考、そして信念だ。

つまるところ、僕たちには「合理的意思決定能力」が必要なのである。

(当然、ここでいう”合理的”は自分のこころが満たされるという意味も含む)

 

そしてはたして、合理的意思決定能力を欠いた人間の行う生活は、「文化的な生活」になりえるだろうか。答えは間違いなくNOであろう。

 

そしてまた、その合理的意思決定のために必要なのが、

みんなのだいきらいな「べんきょう」なのである。

「合理的判断能力」といったところだろうか。

 

具体的に言えば、インフォームドコンセントに迫られた時、それを理解するためには、ある程度の理解能力(国語・社会・理科といった複合的知識)がいるよね、ということ。

 

 

他にもある。

 

冒頭で「嗜好品・娯楽作品を享受可能な程度の経済的余裕」といったけれど、「嗜好品・娯楽作品を享受可能な程度の理解力」もまた、「べんきょう」によって育まれる。理解力、というか理解の前提になる知識レベルかもしれないけれど。パロディやオマージュを理解するためには元の作品への深い理解が必要、と同じことです。

 

例えば近代の話で「米ソの冷戦」ということを理解していないと全く面白くない話を理解するためには義務教育で勉強する「社会科」の知識が必要といったように。

 

 

そして能力を得て、権利を有する状態になるために教育を受ける、つまり勉強するということにつながるんじゃないのかな、というのが僕なりの答えになります。

 

異論反論意見お待ちしてます。