なまこ旅行記。

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偏見考

ちょいちょい話題になる「偏見」についてです。

 

 

 

偏見を辞書で引いてみましょう。

 

めんどくさいので、上の「偏見」という文字にgoo辞書のリンクを貼っておきます。

 

とりあえず、「無根拠に判断すること」というのが偏見の意味っぽいですよね。

 

では、常に「根拠による判断」をしないといけないのでしょうか?

 

僕は、「経験知における判断」を「根拠を以て判断」よりも優先させることは、別段おかしくないと思います。

 

経験知における判断とは、どういうことを指すのか?

 

経験知、とは、その名前のとおり、「経験によって蓄積された知」のことです。

 

ざっくりいいかえると、「これは今までこうだった(から、これもそうであろう)」ということ。

 

これは、生きる上での「簡略化」と「危機回避」に使用されています。

 

例えば、子どもは「なぜ毎日朝が来るのか」ということに疑いを持ちません。

 

もちろん、科学的な根拠(自転、公転を組み合わせた説明)は出来ますが、そんなことは理解せずに「いつも朝が来るから朝が来る」と解釈しているでしょう。

 

なぜ考えないか?

 

考えていたら、生活が立ち行かないからです。

 

食物に毒がないか確認する?

自転車が壊れていないか確認する?

次に吸い込む息は無毒かどうか確認する?

 

科学的な根拠はないにもかかわらず、僕たちがそれを行えるのは、経験知によって得た判断からで、経験知のおかげでそういったことに思考に割くリソースを減らしているからです。

 

これが「簡略化」。

 

次に、「危機回避」。

 

これは、「これはこうなことがあるから、避けよう」ということ。

 

実際がどうとかではなく、可能性があるから避けるわけです。

 

毒キノコなんかは典型的な例かもしれませんね。

 

こういう色のきのこは毒を持っている。

 

→故に、この色のきのこも、種類よくわかんないけどやめとこ。

 

こういうようになるわけです。

 

これが、「危機回避」。

 

つまり、「違うことはあるかもしれないが、大まかな傾向が掴める」というのが、経験知だと思うのです。

 

重要なのは、あくまでも「大まかな傾向」であり、逸脱する存在はある、ということ。

 

そして、反例があるからと言って、その傾向を否定できない、ということ。

 

また、通常偏見だと思われていることには、ある程度の説得力のある類推と、それによる経験知が働いている場合があることもあります。