なまこ旅行記。

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差別

あ、別に差別が良いとか積極的にしていくべきとかいう主張じゃあないです。はい。

前 回、性にまつわる自分の意識についてつらつらと書きましたが、今回もそれにつながる話を考えてみたいと思います。自分が親しくさせて頂いている先生に、異 文化などを中心にされていらっしゃる方がおられます。その方の半分授業半分雑談まがいの会話と、「方言」についての授業を受けたことが、タイトルを考える きっかけになりました。

 


まず、親しい先生が教えてくださったことで、いい説明だなあ、と思ったのが「差別」「偏見」「ステレオタイプ」の違いについてです。皆さん、簡潔に違いを言えますか?

 

まず、「ステレオタイプ」とは物事の捉え方、難しく言えば”認知”のレベルの問題だそうです。例えば「愛知県民はお金関係がきっちりしている」といったような。これは正負、そして中立があり得るものである、とも。

 

次に「偏見」。”態度”のレベルの問題。例えば「あいつは愛知県民だから金に汚いに決まっている、だから嫌いだ」のような感じですね。これには負のものしか含まれません。

 

最後に「差別」。これは、それらを”行動”レベルにまで高めてしまった問題です。例えば、「愛知県民は金に汚い、だからあいつとは商売しない」。これも負の意味しかありません。


 

じゃあ、そもそも差別ってどこにあるんでしょう?

賢い皆さんなら、「生活のどこにでも」と答える方が多いと思います。電車の中、職場、ちょっと大きくすれば政治、国際社会…挙げればきりがありませんね。

しかしながら、差別がそこに”存在”すると同時に、その差別を”悪いこと”としてなくそう、と動いている人たちが”存在”します。それはまるで光と影のように、「必ず」という言葉を付けても過言ではないくらいに。

 


では、そんな差別の一つに、「方言」があったということはご存知でしょうか。勿論「知っているよそんなことくらい」という方もいらっしゃると思うのですが、一応説明をば。

第 二次世界大戦が終わってからくらいに、”標準語”という言葉を発明しようと躍起になっていた時代があります。(一応断っておくと、現在の日本語学的には標 準語など存在しません)方言とは遅れた言葉・使ってはいけない言葉であり、学校で方言を使った子には罰を与えるなど、積極的に矯正していた、そんな時代が あったのです。行動レベルにまで高められているので、これは”差別”と言って良さそうですね。

しかし今現在、方言にはどちらかと言えば 「+」のイメージがあるようです(個人的にはマイナスのイメージがなくなった、という表現が適当な気がします)。方言女子という存在や、ネットの海には 「猛虎弁」といったような関西弁のようなものが溢れています(これは、方言のアクセサリー化などという現象などともいわれます)。漫画でも、当然のように ライバルは関西弁であったり九州弁であったりを使用しています。最近ではジャンプの「ハイキュー」という漫画で、珍しく関東の方言を多使しているみたいで 僕自身は非常に好きな傾向です。

 

一種の理想的な差別の解決、と言えるのでしょうか。

 

答えはノー、僕はそう思います。

 

僕 の考えでいえばこれは”差別の解決法”ではないです。これは、たまたま、結果として差別が”解消”されただけで、決して解決には当たりません。人為的に 「方言はいいものだ!」という働きかけというのがなく(全くなかったわけではないです)、社会の流れで、受け止められ方が自然と変化していっただけです。


そして、やっと本題です。なんですが、これは僕も思考のとっかかりが出来ていないので、申し訳ない事に問題を提起しただけで終わってしまいます。

 

” 差別”という概念そのものが、現在、差別の憂き目にあっているのではないでしょうか。善悪の概念は、時代によって、そしてそれ以外の様々な要因によって変 化します。それは戦争を見ればわかるように、それは宗教を見ればわかるように。ならば、差別が”善”として受け止められた時代(教育でいう優生学のよう な)が、もしかしたらもう一度来るのかもしれません。ならば現在の差別と、その差別を許さないということについて、ただ唯々諾々と受け止めるのではなく、 少し疑ってみたい、とそう思いました。

それでは。