なまこ旅行記。

旅行記と生息記。

なまこ旅行記

児童文学から見る自分の退化

 突然だけれども、「児童文学の不朽の名作の条件は、なにか」と問われたら、あなたはなんと答えるだろうか。

 

 もし、僕がそう問われたら、「なまなましさ」が恐らくその条件だ、と答えるだろう。

 

「なまなましさ」。いかに物語を身近に感じられるか、である。

 

  子どもらにとって、いやこれは全ての年代に言えることだが、読書とはすなわち冒険である。そこに居ながらにして、そこではないところにいて、ここにはない 経験をする。もしかしたら探偵になり何事件の解決に導くかもしれないし、もしかしたら怪盗になりお宝を見事手に入れるかもしれない。あるいは悲劇のヒロイ ンになって、服毒自殺をしてしまうかもしれない。

 

それを楽しむためには、やはり物語に深く入り込む必要があるだろう。そしてそれに不可欠なのが、「なまなましさ」だ、と僕は思うのだ。


  けれども、これがなかなか難しい。子どもらの知っている世界は、あまりにも狭い。広さな意味でも、知識的な意味でも。それはすなわち、作品の舞台が絞られ てくる、ということだ。世相、最新技術を絡めれば、いずれは時代遅れになり「不朽」たりえないし、語彙の難度をあげれば、それは児童文学とは呼べないもの になってしまう。ところが話がつまらなければ、それはそもそも名作ではない。

 

 それを表現するために一番適しているのが、おそらく異世界モノ、いわゆる「ファンタジー」なのだろう。

 誰も知らない世界ならば、前提の知識は必要ない。すべては、作者の表現次第だ。総理大臣も、携帯電話(今はスマホか)もいらない。必要なのは王様と伝書鳩だ。子どもたちは、みずからの想像力だけを手掛かりに未知の世界を冒険すればよい。


 実際にいわゆる児童文学の名作と言われるものには、ファンタジーが多い。あげれば枚挙に暇がないが、「ナルニア国物語」「ハリー・ポッター」「ダレン・シャン」「デルトラクエスト」などは、みなさんもご存じなのではないだろうか。

 

  もちろん、国産だって負けてはいない。そのもっともたる、二大巨頭の一人とまで呼ばれる人が、上橋菜穂子さん。「守り人シリーズ」「獣の奏者」で有名だろ う。上橋さんが描くのは、綺麗な魔法が登場し、こわーいドラゴンを倒し、わかりやすい悪人を成敗するような、そういったお話ではなく、ゴリゴリの、骨太な ファンタジーだ。

 

 今回これを書くに至ったのは、その「精霊の守り人」を久々に読み返したからだ。

 ざっくり筋を話すと、現実世界は「サグ」と呼ばれる。もう一つの世界の「ナユグ」の生き物に卵を産み付けられた皇子。それを狙う、皇国が差し向ける「サグ」の暗殺者と、「ナユグ」の卵喰い。そして主人公の女用心棒が皇子を守る、といった流れだろうか。


 当然、おもしろかった。懐かしくもあり、また忘れているところもあった。

 あのころ読んでいた本を思い出した。

 同時に、自分の変化に愕然とした。

 読んでいる最中に、登場人物のセリフを日本語学的観点から見てしまった時には、苦笑してしまったが、一番の変化はそこではない。

 

 かつての自分の読書スタイルは、読んでいたら、そこに自然と世界が見えていた。笑う方がいられるかもしれないが、誇張ではない。ぞわり、と肌が粟立つような感覚から始まり、文字とともに映像が脳裏に浮かび、登場人物の声が聞こえる。そんな読書経験をしてきたのだ。

 今でも、特に面白いと感じる本で、肌が粟立つような感覚に襲われる。映像が一部流れることもある。おそらくだが、意識すればまだ、世界を見ることもできるかもしれない。しかし、それは断片的で、無意識に世界が見えるほどにその世界に入り込むことは、いまはもうできない。

 

 読書量が、高校や大学でぐっと減った影響なのか。感受性の問題なのか。想像力の影響なのか。ファンタジーを最近読んでいないせいなのか。原因はさまざまだろう。

 

 とにもかくにも、僕は悪い意味で「現実世界の住人」、「サグの住人」になってしまったのを、久々に読んだ本で気づかされた。

 最近、ありがたいことに、読書会をする活動に参加するようになった。読書をする癖を、もう一度取り戻す。そしたらまた、「もう一つの世界」「ナユグ」がみられるようになるだろうか。

なまこのほしいものリスト

Amazonとかのネット通販って便利ですよね。クレジットカード作ってからよくお世話になるようになりました。


人の誕生日プレゼントでネクタイを買いました。

ネクタイほしいなって思いました。

 

いや、スーツって好きなんですよ昔から。あれって、「THE・格好いい男」の”ステレオタイプ”ですから。

だからというわけじゃないんですが、昔からずーっとスーツの似合う紳士に憧れています。

あとは仙人にもなりたいですね。

まあ、中身も外見もついてこないんですけどね。


ところで、ほしいものって意外とないなあって感じました。

 

いや無欲なわけじゃないんです。漫画とか、服とかいいなあっておもうんですけどね。クロスバイクはずーっとほしいし、今だったらプラネタリウムとかアロマディフューザとか寝袋とかほしい。あ、ミュージックプレイヤーもほしいしゲーム機もほしい。

ただ、本当に欲しいか?といわれたら「あったら嬉しい…」くらいなのかも、と思うくらいなのかも、と自信なくなってきました。だって、本当に欲しかったら買ってるでしょう?貰ったら明らかに大喜びするけども、買ってないってことはほしいものじゃないのかも。

 

じゃあ逆にお金出して買ってることってなんだ、って考えてみたら、後輩に奢ったりすることと旅行だったりするんですよね。

 

つまり、僕はどちらかといえば、モノよりも、後輩との時間や旅。はたまた人格の改善や英語力とか、そういった体験や中身の変化を求めてるんだな、って自己分析したところで筆を置きます。

差別

あ、別に差別が良いとか積極的にしていくべきとかいう主張じゃあないです。はい。

前 回、性にまつわる自分の意識についてつらつらと書きましたが、今回もそれにつながる話を考えてみたいと思います。自分が親しくさせて頂いている先生に、異 文化などを中心にされていらっしゃる方がおられます。その方の半分授業半分雑談まがいの会話と、「方言」についての授業を受けたことが、タイトルを考える きっかけになりました。

 


まず、親しい先生が教えてくださったことで、いい説明だなあ、と思ったのが「差別」「偏見」「ステレオタイプ」の違いについてです。皆さん、簡潔に違いを言えますか?

 

まず、「ステレオタイプ」とは物事の捉え方、難しく言えば”認知”のレベルの問題だそうです。例えば「愛知県民はお金関係がきっちりしている」といったような。これは正負、そして中立があり得るものである、とも。

 

次に「偏見」。”態度”のレベルの問題。例えば「あいつは愛知県民だから金に汚いに決まっている、だから嫌いだ」のような感じですね。これには負のものしか含まれません。

 

最後に「差別」。これは、それらを”行動”レベルにまで高めてしまった問題です。例えば、「愛知県民は金に汚い、だからあいつとは商売しない」。これも負の意味しかありません。


 

じゃあ、そもそも差別ってどこにあるんでしょう?

賢い皆さんなら、「生活のどこにでも」と答える方が多いと思います。電車の中、職場、ちょっと大きくすれば政治、国際社会…挙げればきりがありませんね。

しかしながら、差別がそこに”存在”すると同時に、その差別を”悪いこと”としてなくそう、と動いている人たちが”存在”します。それはまるで光と影のように、「必ず」という言葉を付けても過言ではないくらいに。

 


では、そんな差別の一つに、「方言」があったということはご存知でしょうか。勿論「知っているよそんなことくらい」という方もいらっしゃると思うのですが、一応説明をば。

第 二次世界大戦が終わってからくらいに、”標準語”という言葉を発明しようと躍起になっていた時代があります。(一応断っておくと、現在の日本語学的には標 準語など存在しません)方言とは遅れた言葉・使ってはいけない言葉であり、学校で方言を使った子には罰を与えるなど、積極的に矯正していた、そんな時代が あったのです。行動レベルにまで高められているので、これは”差別”と言って良さそうですね。

しかし今現在、方言にはどちらかと言えば 「+」のイメージがあるようです(個人的にはマイナスのイメージがなくなった、という表現が適当な気がします)。方言女子という存在や、ネットの海には 「猛虎弁」といったような関西弁のようなものが溢れています(これは、方言のアクセサリー化などという現象などともいわれます)。漫画でも、当然のように ライバルは関西弁であったり九州弁であったりを使用しています。最近ではジャンプの「ハイキュー」という漫画で、珍しく関東の方言を多使しているみたいで 僕自身は非常に好きな傾向です。

 

一種の理想的な差別の解決、と言えるのでしょうか。

 

答えはノー、僕はそう思います。

 

僕 の考えでいえばこれは”差別の解決法”ではないです。これは、たまたま、結果として差別が”解消”されただけで、決して解決には当たりません。人為的に 「方言はいいものだ!」という働きかけというのがなく(全くなかったわけではないです)、社会の流れで、受け止められ方が自然と変化していっただけです。


そして、やっと本題です。なんですが、これは僕も思考のとっかかりが出来ていないので、申し訳ない事に問題を提起しただけで終わってしまいます。

 

” 差別”という概念そのものが、現在、差別の憂き目にあっているのではないでしょうか。善悪の概念は、時代によって、そしてそれ以外の様々な要因によって変 化します。それは戦争を見ればわかるように、それは宗教を見ればわかるように。ならば、差別が”善”として受け止められた時代(教育でいう優生学のよう な)が、もしかしたらもう一度来るのかもしれません。ならば現在の差別と、その差別を許さないということについて、ただ唯々諾々と受け止めるのではなく、 少し疑ってみたい、とそう思いました。

それでは。