なまこ旅行記。

旅行記と生息記。

なまこ旅行記

なまこのほしいものリスト

Amazonとかのネット通販って便利ですよね。クレジットカード作ってからよくお世話になるようになりました。


人の誕生日プレゼントでネクタイを買いました。

ネクタイほしいなって思いました。

 

いや、スーツって好きなんですよ昔から。あれって、「THE・格好いい男」の”ステレオタイプ”ですから。

だからというわけじゃないんですが、昔からずーっとスーツの似合う紳士に憧れています。

あとは仙人にもなりたいですね。

まあ、中身も外見もついてこないんですけどね。


ところで、ほしいものって意外とないなあって感じました。

 

いや無欲なわけじゃないんです。漫画とか、服とかいいなあっておもうんですけどね。クロスバイクはずーっとほしいし、今だったらプラネタリウムとかアロマディフューザとか寝袋とかほしい。あ、ミュージックプレイヤーもほしいしゲーム機もほしい。

ただ、本当に欲しいか?といわれたら「あったら嬉しい…」くらいなのかも、と思うくらいなのかも、と自信なくなってきました。だって、本当に欲しかったら買ってるでしょう?貰ったら明らかに大喜びするけども、買ってないってことはほしいものじゃないのかも。

 

じゃあ逆にお金出して買ってることってなんだ、って考えてみたら、後輩に奢ったりすることと旅行だったりするんですよね。

 

つまり、僕はどちらかといえば、モノよりも、後輩との時間や旅。はたまた人格の改善や英語力とか、そういった体験や中身の変化を求めてるんだな、って自己分析したところで筆を置きます。

差別

あ、別に差別が良いとか積極的にしていくべきとかいう主張じゃあないです。はい。

前 回、性にまつわる自分の意識についてつらつらと書きましたが、今回もそれにつながる話を考えてみたいと思います。自分が親しくさせて頂いている先生に、異 文化などを中心にされていらっしゃる方がおられます。その方の半分授業半分雑談まがいの会話と、「方言」についての授業を受けたことが、タイトルを考える きっかけになりました。

 


まず、親しい先生が教えてくださったことで、いい説明だなあ、と思ったのが「差別」「偏見」「ステレオタイプ」の違いについてです。皆さん、簡潔に違いを言えますか?

 

まず、「ステレオタイプ」とは物事の捉え方、難しく言えば”認知”のレベルの問題だそうです。例えば「愛知県民はお金関係がきっちりしている」といったような。これは正負、そして中立があり得るものである、とも。

 

次に「偏見」。”態度”のレベルの問題。例えば「あいつは愛知県民だから金に汚いに決まっている、だから嫌いだ」のような感じですね。これには負のものしか含まれません。

 

最後に「差別」。これは、それらを”行動”レベルにまで高めてしまった問題です。例えば、「愛知県民は金に汚い、だからあいつとは商売しない」。これも負の意味しかありません。


 

じゃあ、そもそも差別ってどこにあるんでしょう?

賢い皆さんなら、「生活のどこにでも」と答える方が多いと思います。電車の中、職場、ちょっと大きくすれば政治、国際社会…挙げればきりがありませんね。

しかしながら、差別がそこに”存在”すると同時に、その差別を”悪いこと”としてなくそう、と動いている人たちが”存在”します。それはまるで光と影のように、「必ず」という言葉を付けても過言ではないくらいに。

 


では、そんな差別の一つに、「方言」があったということはご存知でしょうか。勿論「知っているよそんなことくらい」という方もいらっしゃると思うのですが、一応説明をば。

第 二次世界大戦が終わってからくらいに、”標準語”という言葉を発明しようと躍起になっていた時代があります。(一応断っておくと、現在の日本語学的には標 準語など存在しません)方言とは遅れた言葉・使ってはいけない言葉であり、学校で方言を使った子には罰を与えるなど、積極的に矯正していた、そんな時代が あったのです。行動レベルにまで高められているので、これは”差別”と言って良さそうですね。

しかし今現在、方言にはどちらかと言えば 「+」のイメージがあるようです(個人的にはマイナスのイメージがなくなった、という表現が適当な気がします)。方言女子という存在や、ネットの海には 「猛虎弁」といったような関西弁のようなものが溢れています(これは、方言のアクセサリー化などという現象などともいわれます)。漫画でも、当然のように ライバルは関西弁であったり九州弁であったりを使用しています。最近ではジャンプの「ハイキュー」という漫画で、珍しく関東の方言を多使しているみたいで 僕自身は非常に好きな傾向です。

 

一種の理想的な差別の解決、と言えるのでしょうか。

 

答えはノー、僕はそう思います。

 

僕 の考えでいえばこれは”差別の解決法”ではないです。これは、たまたま、結果として差別が”解消”されただけで、決して解決には当たりません。人為的に 「方言はいいものだ!」という働きかけというのがなく(全くなかったわけではないです)、社会の流れで、受け止められ方が自然と変化していっただけです。


そして、やっと本題です。なんですが、これは僕も思考のとっかかりが出来ていないので、申し訳ない事に問題を提起しただけで終わってしまいます。

 

” 差別”という概念そのものが、現在、差別の憂き目にあっているのではないでしょうか。善悪の概念は、時代によって、そしてそれ以外の様々な要因によって変 化します。それは戦争を見ればわかるように、それは宗教を見ればわかるように。ならば、差別が”善”として受け止められた時代(教育でいう優生学のよう な)が、もしかしたらもう一度来るのかもしれません。ならば現在の差別と、その差別を許さないということについて、ただ唯々諾々と受け止めるのではなく、 少し疑ってみたい、とそう思いました。

それでは。

反省

 突然ですが、僕にはトランスジェンダーの友人が複数名います。その人達の内面の性にあった格好を見ても、君は「かわいい」「かっこいい」って言ってくれないんだね、と指摘されたことがあります。

 別に、ありがちな「人は中身が一番!」とかくさいセリフは言いませんし、僕はまだそんな出来た人間ではありません。

  理由は、まあ僕が照れ性で褒めるのが苦手ということもあるのですが、決してそれだけではありません。僕は格好良さや可愛さを、親愛な関係な人にあまり使い たくない、それが一番の理由です。これは別に、可愛いという感情がないというわけではありません。仲間由紀恵さんを見れば綺麗だと思いますし、女子大生の 後輩や同級生を見て、可愛いなあと思うことはあります。(当たり前ですが普通に褒めることもあります)

 ただ、僕自身容姿に自信がありませ んし、どちらかと言えばお洒落な方でもないので、僕の可愛い、格好いいという言葉に、果たして説得力が、価値があるのかどうか?という問いに、自分で「な いな」と結論を出しています。あとはまあ、ずれてるって理由もあります。一般で可愛いと言われている女優さんが僕には可愛く見えないことは頻発してます し、僕からは可愛く見えても特にかわいいと言われない人もいますし。だから、ということもあって自分ごときがその基準で相手を評価しては失礼だな、そう思 うのです。それゆえ、おそらく無意識のうちに、人を可愛い格好いいで評することをあまりしていないのです。むしろ、僕が人を褒めるときに使っている基準は 「それは独自の視点かどうか」「自分の知らない知識、見識なのか」「その考えは何にもとづいているのか」「真似出来そうな考え方か」などで、まあ腐っても 大学生ですし、多少のそういったお勉強はファッションよりもしてきましたし現在でもしているため、そっちの方がまだ自分でも判断できそうで、失礼ではない かなあと思うからです。


  そしてそれは、偶然にも今話題の?LGBTトランスジェンダーパンセクシャルなどの人に、あんまり偏見がないことにも繋がってるのかなあと思います。 僕はそういったものを主題とした作品によく触れますし、学術的な話に目を通すのも(おそらく)人より多いので、特にそういった存在が「未知のもの」「怖い もの」「遠くにあるもの」ではありません。それにとって非常に悩んできた彼/彼女らにとって非常に失礼な言い方をしてしまうかもしれませんが、前述のとお り、彼/彼女らの容姿が服装や何かで変わろうと、僕にとってそこはその人個人への評価基準にはあまりならないですから、そういうものだと納得してしまって いる場合、あまり反応を返せなかったりします。また、体の性と恋愛対象の性が一緒であることは気にならなかったり、むしろそれはどこに萌えるのかなどと いったお話をうかがってみたさのほうが上回ります。自分にもそういった側面がないかと言われればないとは言い切れませんし。

 ただ、これはカミングアウトしてくださった彼/彼女らにとってはあまり良くない反応だよ、と忠告されました。彼/彼女らはしばしば差別されがちな自分を公表することに対して、非常に勇気を出したのだから、それを軽く扱ってはいけないよ、そう言われました。


 こ の記事を書くきっかけになったのは、最近、小学生に性別欄を選ばせる指示をしたときの、ささやかな失敗でした。そこそこ間違いの多い、ちょっとめんどくさ めの、質問の多い作業から、たった二択の「男子/女子」を選ばせる簡単な作業に移行する、という気楽なものに変わる。子どもたちはそれなりに緊張もあった し、僕は考えなしに「次は男子/女子を選んでください。わからない人は…いないね?」という言葉を発してしまいました。

教室は笑いに包まれました。緊張もおそらく解れたことでしょう。ただ、僕はその後、思いつめたような顔で、「私/僕学校で性同一性障害って言われる」(原文はもっと性別が確定できる口語でした)と言ってきた子に、自分の考えなしさを教えられました。

特に「ことば」を専攻するものとして、そういった「文法上」のことば遣いだけではなく、そのことばの持つ意味、専門用語的に言えば「語用論的意味」が一番近いのでしょうか、をもっと考えて使っていきたいと思います。