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多様性の考察

 今回、以下の文章において、非常にたくさん「多様性」という言葉を使ったが、これを「差別」と読み替えてもらっても、ある程度は問題ない。それでは。

 

 

 

僕は、あまり多様性が好きではない。

 

いや、違う。

 

正確に言えば、「多様性への過剰な理解と配慮を求めること」が好きではない。

 

なぜなら、人間は全能ではないし、コストには限度というものがあるからである。

 

ちょっと論理の飛躍が過ぎてしまった。

 

まず、一口に「多様性」といったところで、非常に多岐にわたる。

 

宗教、人種、言語、文化、性別、年齢、障害の有無、貧富、職業…。

 

このどれもが、いま問題になっているし、そしてこれからも問題であり続ける、ということが、少し想像力をはたらかせてもらえたらご理解いただけると思う。

 

当然ながら、多様性とは上に挙げたもの以外にも挙げることができるだろうし、挙げていけばどれほど時間と余白があろうとも十分ということはない。

 

そう、多様性は無限なのである。

 

翻って、人間の能力、というのはあまりにも脆弱すぎる。

 

いいや、能力というと語弊がある。

 

人がなにかを得るために使うエネルギーは、多様性の配慮のためにはあまり向けようとは思わないし、また多様性の配慮のために必要なエネルギーは結構高いのである。

 

例を挙げよう。

 

おそらく、先に挙げた多様性の例で最も今「ホット」、言い換えれば「トレンド」なのは、性別をめぐる多様性だろう。(特に不快感を呼びやすい話題なので、言及するのは非常に怖い)

 

同性婚トランスジェンダー、LGBTs、フェミニズム…。

 

こうした単語を、僕はツイッターで見ない日はないし、現実においても、新聞記事なんかで毎日のように取り上げられていると言っても、もはや過言ではないような社会情勢だと思う。

 

それでは、現実にそれに対応するためには、どういったことが必要だろうか?

 

みなさんの頭によぎったのは、更衣室・お手洗い・ワードチョイス・友人づきあい、といった単語ではないだろうか。

 

そしてそれに不快感を示せば、「差別者」というレッテルを張られる可能性もあるし、"正しい"ムーブを取るためには、「勉強」しておく必要性がある。

 

失礼にあたらない言葉遣いはもちろんのこと、ともすればその歴史まで。

 

まあ、人の問題だけではなく、設備の問題もコストで説明できたりもするが。("性別"の数だけお手洗いを分けないといけないのであれば、どんな分類かにもよるが、ある分類に基づけば100個以上のトイレが必要になる)

 

ポイントはまさにここである。

 

多様性の理解/配慮のためには、「勉強」がいるのである。

 

しかもそれは、常にアップデートを求められるものとして。

 

それでいて、この多様性というやつ、上述の通り「無限」に存在する。

 

いくら時間があっても足りないし、そもそもそれを学ぶための意欲はどこから生まれるのか、ややもすれば、その論理が難しくて理解できない、という理解力的な壁、という問題にも直面していくことになるだろう。

 

つまるところ、ひとつのジャンルですら、その理解、配慮のために膨大なコストがかかってくる上に、それがたくさんある。

 

人間はすべての多様性への理解というのは不可能だし、その配慮というものも不可能である。

 

どの多様性に配慮するかというのは、結局マイノリティの中のマジョリティで決まってくるし、なぜそうするかといえば、それが一番実利があるからだ。
(非日本語に対応する際に、英中韓という言語が選ばれるし、新潟なんかではロシア語が選ばれたりする構造を想起してもらえば、理解は容易だと思う)

 

ところで、勘違いしないでもらいたいことが二つある。

 

一つ目は、理解と配慮は放棄してもいいわけではない、ということ。

むしろ僕は、理解と配慮は思想や時間、能力といったコストが許す範囲ですればいいと思う。みんなにとって住みよい世界になるのが一番なのは間違いない。(人種差別の解消などに関しては、コストが許されているからどんどんなされるべきだし、実際なされる方向に動いてますよね)

 

だがそれは、あくまでも「コスト」が許す範囲の話。あればハッピー、くらいである。

 

二つ目は、この文章の目的は、マジョリティ側からの差別容認ではない、ということ。

 

セクシュアリティの観点から見れば、僕は男性だし、かなり異性愛者よりだと思う。そういう意味ではマジョリティ側だ。

 

でも、宗教という観点からなら、僕はマイノリティに属するし、しばしばそれが原因で傷ついたことだってある。
(自分は新興宗教の信者だし、雑談での「宗教かよw」という言葉に敏感なのは、おそらく僕以外の関係者もそうなんじゃないかなあ、とふとした時に思う)

 

陳腐な言い回しになるが、お互いがお互いの立場を慮り、できればこうなったらいいなあ、とか、できそうだからこうしてみようかな、ということが、結局のところ最適解なのかな。