なまこ旅行記。

旅行記と生息記。

なまこ旅行記

感想

はい。一応書いていなかった6月分を取り戻す意味でもう一つ書いておこうと思います。恋愛についても書いて、とリクエストはあったのですが、今回は「感想」についてです。

 

社会学の授業を受けた時に、「みられる」「注目される」ということは、かつては忌むべきものだったが、現在はむしろそれは快楽と化しつつある、ということを聞き、なるほどなあ、と思った覚えがあります。

どういうことかと言えば、目立つ、ということはその集団と異質である、異質なものは排除される傾向があったからであり、現代では逆に2chツイッターなど自己発信できる場が増え、注目されることはいいことだ、というように変わってきた、ということらしいです。

 

おそらくそれは正しいだろう、と思います。そも、自己を表現することはそもそも快楽のはずです。それが言葉であれば詩、小説に、それがイラストであれば絵、漫画に、それが体であればスポーツに。自己表現はさまざまで、しかしなにかが、「おもいどおりのかたち」で外に出る、ということを、その気持ちよさは誰もが知っているはずです。

 

でも、全てを一から生むのはしんどいです。心理的にも、作業的にも。だからこそ、ゲームのようなボタンで操れる自己表現手段が人気を得ているのだろうな、と思ったりします。あるいは、その自己表現の快楽が共感できる、読書であったりスポーツ観戦が人気なのでしょう。話がそれました。

 

 

だから僕もその後者、共感する方だったのですが、最近前者になり始めました。これを読んでくれている人はおそらく、僕がしばしばRTする謎を一度は解こうとしてくれたのではないでしょうか。大体自分が作成したものをRTしているので、少なくともああいったパズルのようなものを作成しています。

また、このブログもそうです。一応駄文といえども文章を書いているので、これも一種の創作活動ですね。

 

いざ、生み出す側になってみると贅沢なもので、自己の快楽だけではなくて、共感してくれた人の「反応」が見たくなります。見たく、というと正確ではないですね。見る、聞く、というのは瞬間的なもので、後には残りません。文字を見返して(あるいは絵かもしれないですが)落ち込んだ時、迷った時、ニヤニヤするために反応の再確認がしたくなります。あるいは、次の謎、謎を用いたイベントに生かすためにも必要だったりします。

 

生み出す側に立って初めて理解できたことなのですが、たった一言の「おもしろかった!」「よくできてる」ってのはめちゃめちゃ勇気づけられるし、「あっ次作ろう…もっと面白いの考えよ…」ってなります。長文の引用ついーとなんてもういちころです。

 

 

っていうのを感じてから、僕は基本的に何かの感想を求められたとき、かなり詳細に書いたり、語ったりしているはずです。アンケートとかでもですね。その業界に詳しくなくとも、ですね。

例えば漫才のライブのアンケートとかだと思いますが、「どこどこが面白くて、どこどこが疑問」など、かなり具体的に答えているはずです。たぶんそれが励みになったり、落ち込んでしまうきっかけにもなってしまうのですが、きっと自分のようにモチベーションにつながるのでしょう。

 

 

この文章で何を伝えたかったか、というと、「その一言が意外と重い」ということです。漫画家さんだと少し遠いので実感はないと思いますが、僕ならかなり近い感じが分かるのではないでしょうか。たった一言が、「作ってよかった」「次も作ろう」になるんです。たった一言が、その後からの次への膨大な作業のエネルギーになる、と思うと、なんだかわくわくしませんか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

つまるところ感想をくれということです。わかったな。